2歳11カ月

 

娘が3歳になる前に愛宕神社の出世の階段を一緒に登りたいな、と思っていて、天気も良かったので休みの日に娘と二人で行ってきた。

 

愛宕神社の鎮座する愛宕山は東京23区で最高峰を誇る山だ。といっても標高はたったの26mなのだけれど、山の周りはほとんど海抜0mに近く、愛宕神社の位置する高さは周囲のマンションの8階ぐらいに相当するので、まあ結構な高さである。娘は階段を登るのが好きだ。江戸東京博物館に行った時も、展示物には目もくれず娘はひたすら階段を昇り降りして楽しんでいた。娘が好きなことをやらせたいな、という親心もあり、今回のチャレンジに至った次第である。

 

 

 するすると登っていく娘。本当は正面から撮りたかったのだが、滑落の危険もあるので後ろから見守る。

 

 

 

こっちを振り向いて手を振る余裕すらあった。

 

 

あっけなく登頂してしまった。よく頑張った。社務所で「出世の階段の最年少登頂記録なんてものはありますか?」と尋ねたところ、巫女さんは困ったように「ちょっとそういうのは無いんですが」と答えた。ネットで検索してもそれらしきものが無かったので本当にないのだろう。なので、うちの娘の2歳10か月を現時点での最年少記録と言っても差し支えあるまい。言ったもん勝ちである。

 

 

札幌に住む母方の祖母が亡くなった。97歳だった。もうここ何年かずっと体調が悪く、いつ死んでもおかしくない状態だったので心の準備はすでにできていた。葬儀は家族葬で、俺は父と母と3人で札幌に行った。葬儀は滞りなく終わり、久しぶりに会う札幌の親族たちとは思い出話で盛り上がった。父が懐かしむように話す。

 

「ヒロキがまだ小さい頃、妻と喧嘩して『出てけ!』って言ったんだよ。そしたら本当に子どもを連れて妻が家を出て行ってさあ、思い当たるところに手当たり次第電話をかけたんだけど全く見つからなくて、これはいよいよ実家に帰ってしまったんじゃないかと思って、最後に札幌に電話したんだよ。妻がそちらに行ってるんじゃないかって。そしたら電話に出たお義母さんは立派だったねえ、ピシャッとこう言われたよ、『娘が家を出ていくようなひどいことを、あなた娘にしたんですか?』って。俺、何も言い返せなくてさあ…」

 

この話を父から聞くのは何度目だろう。初めて聞いたのは、俺が奥さんと結婚する直前のことだった。ヒロキというのは俺のことだけど、まさかあれが夫婦喧嘩の末の家出だとはその時まで全く知らなかったのだからそれを聞いた時は衝撃だった。確かに自分の中にその記憶はある。それは俺が5歳か6歳ぐらいの頃、母に連れられて妹と3人で横浜に行き、そのままホテルに一泊したというものである。しかしそれは自分の中で美しい思い出として記憶している。なぜなら夫婦喧嘩うんぬんの記憶はすっぽりと抜け落ち、母が買ってくれたいちご1パックをホテルの部屋で3人で分け合って食べたという美しい記憶しか残っていなかったからである。ちなみに当時の母は札幌から横浜に越してから数年しか経っておらず、行くあてが無かった母が唯一知ってるホテル、つまり結婚式をあげた横浜のホテルに泊まったとのことだった。

 

「その後でわたし、母さんに怒られたの。『あんた、なんで札幌に帰らなかったの!次に何かあったらいつでも帰っていらっしゃい!』って…」

 

「…そういうことがあったもんだから、それ以降、妻に『出てけ』って言うのをやめたんだ。そのかわりに、こう言うことにしたんだ。『この部屋から出てけ!』って」

 

こういう場になると必ず話す、父の鉄板エピソードである。この話を俺の結婚直前にしたのは理由があって、「だからヒロキ、お前も奥さんに絶対に『出てけ!』なんて言うなよ」と最後に締めくくったのであった。

 

これを久しぶりに聞いて思い出したのが自分たちの夫婦喧嘩の末の家出エピソードである。結婚前に念押しされていたので、自分たちの夫婦喧嘩の時に出て行ったのは俺の方だった。「もうこんな家、出て行ってやる!!」と大声で宣言し、着替えや荷物をスーツケースに詰めながら、早く止めてくれよ、そっちが先に謝るのなら俺だって謝る準備は出来てるんだから…と内心思っていたが、声をかけてもらう気配すら無かったので、いよいよ家を飛び出すしかなく、「もう帰ってこないから!!」と捨てセリフを吐いて家を飛び出したのだった。ちなみになぜそこまでの喧嘩になったのかの原因は覚えていない。本当にくだらない理由だったのだろう。

 

ただ覚えているのは、娘が生れて数か月目の夏の夜だったということだ。当時は俺も奥さんも本当にしんどかった。娘が夜になかなか寝てくれなかったからだ。生まれた当初は母乳と粉ミルクを半々ずつ飲んでいたのだが、次第に娘が粉ミルクを拒否するようになってしまい、粉ミルクを飲まなくなると娘を他人に預けることも出来ず、夜は数時間おきに娘が泣いて起きるのでろくに眠れず、乳首を毎回噛まれ、重い娘を抱きかかえて寝かしつけてるうちに腰をやられ、そんな生活を連日つづけてるうちに奥さんは完全に疲弊しきってしまった。俺は俺で日中会社であくせく働き夜は子育てを手伝い、大好きな酒を断っている奥さんの前で酒は飲めないと自分も酒を断ち、会社でも家でもストレスをためとうとう鬱になってしまった。俺も奥さんも全く余裕がなかったのだ。

 

家を飛び出したものの行くあてもなく、蔵前のホテルに行ってみたが満室ですと断られ、俺は一人夜の隅田川沿いのベンチでたたずんでいた。今にして思えば、どこかにパーッと飲みに行って気分転換すりゃいいじゃんと思うのだが、病んでいた当時はその発想にいたらず、ひたすら死にたいと思っていた。自分なんてこのまま野垂れ死にすればいいんだ、このままベンチで寝て朝になって凍死体になって発見されればいいんだ、と…。しかし夏だったので夜はちょうどいいぐらいの気温でありまったく凍死するような気配もなく、そもそも隅田川のベンチはホームレス対策でベンチに人が寝れないような間仕切りがしてあり、ベンチで寝れないのならと植え込みで横になったのだがどうにも寝心地が悪く、死に場所をもとめ隅田川沿いをウロウロしているうちに朝になり、疲れていたしおなかも空いたので家に帰って奥さんに謝った、というエピソードだ。

 

いや、今思い返したって自分の行動が全く理解できないのだが、それ程までに自分は病んでおり、奥さんも疲弊しきっており、とどのつまり、あなたを育てるのはそれ程までに大変なことだったんだから…という話を、自分もいつか娘に(笑い話として)話すときが来るのかもしれない。どんなタイミングで切り出すか思案してみたのだが、やはり娘の結婚前がいちばんいいな…とぼんやり思った。