神奈川の郷土料理、「けんちん汁」について

地方都市が好きだ。地方のスーパーに行って「へええ、こんな食材が売ってるのか!」って一人で盛り上がるのも好きだし、地方の繁華街でその土地の人々に混じって一人で酒をしみじみ飲むのも好きである。

 

自分は横浜市郊外の二俣川にある新興住宅地で生まれ育ち、現在は結婚して東京に住んでいる。自分にとっての故郷といえばその二俣川になるわけだけど、あまり故郷という感じではない。父は東京蒲田の出身で母は札幌の出身、結婚して二俣川に移り住んだということなので、故郷の料理というものも食べたことがない。だから地方に憧れみたいなものがあるのかもしれない。

 

先日ふと「そういえば、神奈川の郷土料理ってなんだろう」と思い立ち、調べてることにした。

 

聞き書 神奈川の食事 日本の食生活全集(14)

 

大正の終わりから昭和にかけての食生活を都道府県ごとにまとめた本である。この本の中ではさらに横浜・鎌倉・川崎近郊・三浦半島相模原台地相模川流域・足柄山間・小田原・津久井山村、と地域の食事が非常に細かく細分化されており読みごたえがある。

 

当時の横浜の食生活は、卵と海苔が高級品で滅多に買えない、ということを除けばびっくりするぐらい今とほぼ変わらない。朝食は白飯に味噌汁、こうこ(漬物)、納豆。昼はパンにコーヒー。夜は野菜料理や魚料理、肉料理が中心である。大みそかは日本酒と年越しそばを食べ、花見には卵やハムのサンドイッチを持っていく。晩酌にはセロリスティックやきゅうりスティックなどの生野菜とチーズをつまみに、ビールや舶来のウィスキーをちびちびやる、といった具合である。本当に今と変わらない、豊かな食生活である。

 

それと比較すると実家のある相模原台地*1の食生活は大変に貧しいものである。

 

忘れてはならないのは燃料の確保である。相模原台地の雑木林のならやくぎは良質な炭になるが、自家で炭を焼く家でさえ、ほとんどを売りに出し、炭を使うのは「お蚕さま」のためだけ。お蚕がよく育つように、蚕室を暖めるのに使うため、大事にとっておく。

 

よほどのお大尽でもない限り、ふだんの食事は麦飯、おつけ(味噌汁)、こうこ(漬物)ていどで、野菜の煮ものでもつけば上等、目刺しでもつけば特上といったところ。 

 

読んでるだけでせつなくなってくる…。そんな貧しい相模原台地の住人も、正月三が日は「ごちそう」を食べる。それは白米と、けんちん汁であったそうだ。

 

けんちん汁。これは鎌倉の食生活の項目でも登場する。鎌倉にある建長寺――臨済宗の本山であり、鎌倉を代表する寺である――での祝い事や行事があったときの昼食にいただくのがけんちん汁である、とある。つまりごちそうなのだ。

 

建長寺では、けんちん汁を「建長汁」と書き、建長寺といえば建長汁といわれるほど有名である。この料理はご開山大覚禅師以来、伝統的な汁もので、700年の味である。 

 

うおー全く知らなかった。建長寺と言えばけんちん汁。700年の味。神奈川の各地で祝い事で食べられている。これこそ神奈川を代表する郷土料理と言ってもいいのではないだろうか?

 

汁の実はすべて乱切りである。もとは残菜を生かした料理だったからで、その名残である。季節の野菜をごま油でいためるが、一度に放り込むのではなく、固いものから順に炒めてゆく。それぞれの実が煮あがったあとに、豆腐をもみつぶして入れる。

 

これにはいわれがあって、大覚禅師がご在世のころ、ある日門前に住む何某が、一丁の豆腐を禅師に寄進した。しかし、禅師が一人で食すことは仏祖に申し訳が無いと、膝下の修行僧ともどもいただくために典座にお下げ渡された。当時700人からの修行僧がいて、どうすればいきわたるか思案のあげく、汁にもみつぶして入れた。これが建長汁のはじまりである。仏教では食平等を重んずるが、この豆腐がまさに、その象徴である。 

 

このいわれもなかなか素晴らしいものである。この本に書かれている建長寺のけんちん汁の特徴を要約すると以下の通りである。

 

-残り物の根菜や季節の野菜などありあわせのものを使う

-ダシは使わない

-ごま油で炒める

-豆腐はもみつぶす

-炒めながら醤油で下味をつけ、水を入れてゆでるときに醤油で本格的に味付けをする

 

もちろん寺の料理なので肉も入れない。豚汁などとは基本的に思想がちがうのである。

 

これを読んで俺も建長寺スタイルのけんちん汁をつくりたくなった。参考にしたのはキッコーマンのレシピである。それを建長寺スタイルでアレンジすることにする。このレシピではたくさんの食材を使用しているが、そもそもの原点を考えれば豆腐さえあればあとの根菜類は適当でいいはずなので、スーパーで適当にゴボウ・にんじん・こんにゃく・油揚げを購入した。

 

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レシピを見るとこんにゃくは下茹でし油揚げは熱湯をかけ油抜きをするとなっているが、建長寺スタイルでは水や燃料を無駄にすることは御法度なのでそのような贅沢な工程は省略する。出汁を使わず、ごま油で炒め、風味を出す。

 

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原作厨的な態度を徹底するなら豆腐は原形をとどめないほど潰す必要があるが、いちおう「豆腐入ってます」アピールをするべくちょっと原形を残すことにした。

 

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完成である。

 

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これが神奈川の郷土料理・けんちん汁である。

 

さっそく夕飯に東京出身の奥さんに食べてもらった。

 

「…豆腐、潰れすぎじゃない?」第一声それかよ!むしろこれでも潰すの抑えてるんだって!「味がなんかぼやっとしてる。ダシは入れたの?」だから!精進料理だからダシは使わないの!「…このコンニャク、下茹でしてないよね?」そういう水を無駄にすることはしないの!っていうか、これはこういうものなの!建長寺スタイルなの!神奈川の郷土料理なの!!

 

なんかことごとく俺のこだわりポイントを否定されて笑った。それ建長寺の宿坊でも同じこと言えるの???

 

後日、同じ食材を使って奥さんがけんちん汁をつくってくれた。私のつくるけんちん汁の方が美味しいでしょう、ふふん、といった感じである。確かに美味しいけど!確かに美味しいけど!でも、そういうことじゃないんだよ!

 

そういうことじゃない、ということを伝えたくて今回この記事をしたためた次第である。

 

そういうことじゃないんですよ。これはこういうものなんですよ。伝わっているだろうか。

 

話は変わるけど今回参照した「日本の食生活全集」、本当に面白かったのでこつこつと全巻あつめたいなと思った次第。次は東京のやつを買いたい。

 

今週のお題「得意料理」

違う、そうじゃない

*1:二俣川は正確に言えば多摩丘陵に位置するのだけど、この本の分類でいえば相模原台地の食生活に相当すると考えるのが適切であると思う。実際に実家近くは開発される前は桑畑であり養蚕が盛んだったと小学生時代に習ったので、相模原台地の食生活における記述とも合致する