三島大社御朱印押印拒否事件

GWに家族3人で三嶋大社に行ってきた。よく晴れたさわやかな日だった。境内では結婚式を行っており、自分はたまたま居合わせただけの通行人ではあるけれど、新郎新婦を祝福したい気持ちでいっぱいだった。そんな清々しい気持ちで神社でお参りをすませ、そして帰りに社務所によって御朱印を押してもらおうと思った。とてもいい気分だった。ところがである。

 

「…これ、御朱印帳じゃなくてスタンプ帳ですよね。スタンプ帳には、御朱印は押せません」

 

はあ??ってなった。いや、あなたの言い分も分かるけど、しかし今までそんなこと一度も言われたことがないからびっくりした。びっくりしたあと、だんだん怒りがこみ上げてきた。

 

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説明しよう。御朱印帳は東京の愛宕神社で購入したものである。娘は神社仏閣が好きだ。パンパン手を叩いたりナムナムいいながら祈りを捧げるのが好きなのだ。で、色々な神社に娘と行くたびに記念の御朱印をもらうようになったのだ。

 

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また駅や博物館、美術館などにも記念スタンプがあるので、娘と一緒に回るときは記念にもらうようにしたのだった。おなじ御朱印帳に。

 

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…これを見て、「スタンプ帳じゃねーか。こんなのに押印を拒否するの当然だろ」と思う人がいるかもしれない。しかし待ってほしい。俺とて節度をわきまえた社会人なので、やっていいことと悪いことはわきまえているつもりだ。

 

よく言われるのは「寺の御朱印と神社の御朱印を同じ御朱印帳でやってはいけない」、というものだ。それは分かる。理解できる。100%頷ける。なぜなら、そもそも宗教が違うからだ。だから、それは俺はやってない。確かに、街でキリストを見かけたからといって手元のコーランにサインをねだろうと思ったら、それはダメだろう、ってなる。分かる。だから、この御朱印帳にあるのは神社の御朱印だけだ。俺はそれはやってない。

 

しかし、仏教御朱印を混ぜてやっているわけではない。記念スタンプである。神社の御朱印の合間に、ちょっと記念スタンプを押しているだけである。ええ?これだめなの?だって、神道ってアニミズムじゃないですか。日本には八百万の神がいて、駅には駅の神様がいて、博物館には博物館の神様がいるわけですよ。理屈で言えば、俺と娘がいろんなところに行ってスタンプをもらう行為は、山岳信仰と全く同じである。いろいろな願いや祈りをこめて人々が霊峰に登るように、俺も娘の成長を祈りながら、娘と一緒にスタンプラリーをしてるのである。娘の成長は、俺の成長でもある。かつてはいろんな場所に一人で行くことができたけど、娘が生まれてからは原則的に娘の行けない場所には俺は行けなくなった。しかし娘は成長する。娘と一緒に生れて初めて乗ったバス、娘と一緒に生まれて初めて乗った電車、娘と一緒に生れて初めて乗った飛行機、俺はその時の感動を克明に覚えている。当時はおんぶでしか移動できなかったけどやがてそれがベビーカーになり、そしてベビーカーでの移動は娘の自立歩行になった。娘の行動範囲が広がるにしたがって、俺の行動範囲が広がった。娘が自力で到達した遠方の駅は、大人の富士登山にも匹敵する偉大なチャレンジであり、その結果として押された記念スタンプには俺と娘の祈りが込められている。これは神道の宗教的立場とはなんら矛盾しない。そもそも、神道には明確な経典なんてないのだから、三島大社のこの対応が神道としての代表的な見解であるはずがない。

 

だから、俺はスタンプ帳には御朱印を押せないと言われた後も必死に食い下がった。現に、前のページにスタンプが押されても都内の神社では御朱印を押してくれたからだ。神田明神靖国神社小網神社、元三島神社…。社務所の人が気づいてないはずはない、なぜなら社務所の人は上下を逆にして御朱印を押してしまわぬよう必ず前のページを確認するからだ。つまり前例がある。俺は言った。他の神社では問題なく押していただきました、どうかお願いしますと。しかし三嶋大社の社務所の方は顔をしかめながら俺の御朱印帳のページをぺらぺらめくり、そして言った。

 

「…スタンプ帳には、御朱印は押せません」

 

はああ???

 

こうも完全否定されてしまうと、俺が否定されたというよりも、娘が全否定されたように思えてしまう。俺のことはいくら悪く言われても構わないのだが、娘のことを否定されると本当に、心の底から、はらわたが煮えくり返った。初めての体験だった。たびたびニュースでモンスターペアレンツの話題が上がるとき、俺は完全に他人事だと思っていた。しかし、違うのだ。俺も、娘のことになってしまうと頭に血が上ってモンスターになりさがってしまうのだ。いや、理性で、わずかに残る人間としての理性で、この時ばかりはモンスター化するのは抑えた。人としての理性で抑えた。しかし俺は、やろうと思えばいくらでもモンスターとして振舞えたのだ。こういうふうに。

 

「押せないっていうのはどういうことなの!?あなたの見解!?三嶋大社としての見解!?あなたは三嶋大社を代表して押せないって言ってるの!?そしてその見解は神道を代表して言ってるの!?ここにこうしてちゃんと靖国神社御朱印ありますけど!?靖国神社の対応は間違えていたの!?スタンプ帳に押した靖国神社の人間は、神道として間違ったことをしたということなの!?どうなの!?どっちが正しいの!?三嶋大社靖国神社、どちらが正しいの!?誰に聞けばわかるの!?神社庁!?神社庁に問い合わせればいいの!?あなたの意見は神社庁の公式見解なの!?靖国神社で押してもらえたのに三島大社で押せてもらえないのは神社庁的にどういうことなの!?ひょっとして、政治的圧力なの!?かつては普通に押せたけど、安部総理になってから、圧力で、三嶋大社で押せなくなったってことなの!?アベ政治!?アベ政治が全ての元凶なの!?アベ政治、許せない!!!!!!!!」

 

…こんな奴が実際に居たとしたらただのキチ〇イだと思うが、しかし俺は、あの時の怒りのパワーがあったら、このぐらいの難癖をつけるモンスターに容易になり得たと思うのだ。怖い。自分が怖い。一瞬でもモンスターになりかけた自分が怖い。俺は大好きな映画、もののけ姫の、アシタカのセリフを思い出した。エボシ御前とサンが一騎打ちする間に割って入ったアシタカがエボシに浴びせるセリフである。

 

そなたの中には夜叉がいる

この娘の中にもだ

 

え?あなたがそれを言うの?右腕にタタリのオーラを纏ったあなたが?人を夜叉よばわりしちゃうの?となるかもしれない。しかし今となってはアシタカの言ったことが俺にはよく分かる。俺の中にも夜叉がいる。様々な事情を抱えた人々がこの世には暮らしていて、それぞれの中には夜叉がいる。そして、それらの人々がみな夜叉になってしまったら、この世は修羅の国になる。己の中の夜叉は、理性でとどめなければならない、それが人間として生きるということなのだ。俺は、エボシを切りつけようとするタタリのオーラを纏った右腕を必死に押さえつけるアシタカの姿を思い出した。

 

その右腕は私を殺そうとしているのか

 

呪いが消えるものなら私もそうしよう

だがこの右腕 それだけでは止まらぬ

 

ここの者すべてを殺すまで鎮まらぬか

 

家に帰って冷静に考えた。東京の神社はリベラルで、地方の神社は保守的だ、ただそれだけのことなのかもしれない。あるいは、歌手に会ってサインを要求するときに、もし今自分が着てるTシャツに書いてください、となったら、喜んでサインを書く人もいれば、失礼に感じて拒否する人もいるかもしれない。それだけのことだと思う。

 

それを思えば、「スタンプ帳」に御朱印を押してくれた靖国神社の対応は、まさしく「神対応」だったわけだ。神はやっぱり偏在するんだな、って思った。

 

以上です。