すごく面白かった。なんだか俺もプロ野球のことを語りたくなったので記憶をたよりに書く(ので数字など間違っているかもしれない、あらかじめ断っておく)。
俺がプロ野球を好きになったのは高2の頃だ。1997年。そう、万年最下位争いをしていた弱小横浜ベイスターズが当時常勝を誇っていた首位・野村ヤクルトを2.5ゲーム差まで追い詰め、あわや奇跡の逆転優勝かと誰もが思い始めた頃の話である。当時実家のある横浜に住んでいたのでこれは応援せねばならんと一発で野球というものにハマってしまった。で、いざ真剣に野球を見始めたらヤクルトとの首位攻防直接対決で石井一久にノーヒットノーランを食らいそのままずるずるとゲーム差を引き離され結局7.5ゲームぐらい引き離され二位のまま終わってしまった。当時の石井一は凄かった。
改めて見ると古田の正確無比な二塁送球もすげーよな。石井は当時の球界では一二を争う剛速球を誇っていたが、コントロールは悪かった。それを支えたのは女房役の古田である。古田が青いキャッチャーミットを使っているのは、その方が石井にとって見やすく投げやすいからだ、と古田本人が何かのインタビューで語っていた。茶色や黄色のミットだと目立つので逆に石井がコントロールを意識してしまい、結果として外してしまう、だから目立たない青のミットが石井には良いんだ、というようなことだったと思う。投手にあわせて彼らの持ち味を最大限に生かす名捕手であった。田畑や吉井など他球団をお払い箱になった投手をヤクルトで再生させた功績から「野村再生工場」と呼ばれていたが、古田なくしては彼らの再生もありえなかった。
さて、ご存知の通り翌年の1998年に横浜ベイスターズは悲願のセリーグ優勝、そしてパの王者・西武を下し38年ぶりの日本一に輝く。この1997~98年という時代は、インターネットというものが世に普及しだした時代でもある。当時はブログなんてものはなかった。みなHTMLをテキストエディタにしこしこ手打ちしてホームページをつくっていた。当時を知らない若い方も「テキストサイト」という言葉は聞いたことあるかもしれない。といってもサブカル日記系テキストサイトについてしかその歴史を語る者はいないかもしれないけれど、プロ野球に関してもテキストサイト全盛時代だったのだ。当時はプロ野球系テキストサイトの管理人たちが夜な夜なその日の試合を面白おかしい文章にしたてあげネットに公開していた。なんjまとめサイトしか知らない若い世代には信じられないかもしれないが、その全てがテキサイ管理人たちの文才あふれるオリジナルの文章だった。信じられるか?パクリサイトなどこの世に存在しない、すべてがオリジナルできらきら輝く文章だけが存在していた世界のことを。
そう、俺が野球を知ったときにはすでに野球はインターネットと地続きだった。その日の夜にプロ野球をテレビで見て、プロ野球ニュースをチェックし、深夜のテレホタイムにプロ野球系テキストサイトを巡回し、面白おかしい文章を読んではげらげら笑うのが日課だった。俺はほとんど横浜ファンのテキストサイトしかおっかけていなかったので見てたサイトに偏りがあるけれど、名前を憶えてるのは「嗚呼、横浜大洋銀行」「くたばれ!横浜ベイスターズ」「虚偽スポーツ新聞」「ホロビノビガク」、あとはプロ野球の話題全般を扱う総合サイトとして本田透さんの「プロ野球景気の悪い話」を読んでいた。
フミコさんは「当時の小学生がマネするような選手がヒーローだ」としていたが、俺が野球にはまったのはそういう環境だったので、俺にとってのヒーローとはテキストサイトでネタになるような選手だった。
まずはハマの花火師、川村丈夫。チェンジアップが持ち味で17勝をあげたこともある頭脳派ピッチャーだったが、同時に被本塁打も多く、よくネタにされていた。
もはや伝説と化したこの芸術的な被ホームランを見よ!巨人の投手・ガルベスにくらった豪快な場外ホームラン、しかも満塁ホームランである。こんなのある?なんなの、助っ人外国人の四番打者なの?っていう飛距離の出し方である。ガルベスのバッティングが良いのはもちろんだが、これは投手・川村という稀代の被ホームランアーチストが投げてなければ達成しえなかった偉業でもある。
そう、投手が打つと盛り上がるのである。今でこそ二刀流・大谷翔平がいるけれど、当時からバッティングの良い投手は(テキストサイトでは)人気だった。
打撃の良い投手といえばなんといっても野村弘樹である。当時の横浜の左のエースで権藤監督の信任もあつく、西武との日本シリーズでも第一戦の先発を任されるほどだったが、打者としての能力も高かった。
動画の中でシーズンの打撃成績が表示されているが、それを見ると60打数15安打 .250 1HR 8打点。現在のベイスターズのどの代打よりも打撃成績が良い。相手は西武の大エース・西口。そんな一線級の投手を相手に第2打席でツーベースを放ち、第3打席でもツーベースを放っている。この無駄のない美しいスイングを見よ(1:40あたり)!西口相手に左中間すなわち逆方向に放った豪快な一打。しかも打球が伸びて名手小関が取れないほどの鋭い当たり。なんなの?筒香なの?っていうレベルの見事なスタンディングツーベースである。
横浜の左投手には大打者が多い印象である。代表格はなんといっても吉見祐治ではなかろうか。初年度こそ二けた勝利をあげたが、以降は投手として伸び悩み、なかなか勝ち星を挙げられなかった。しかしバッティングは一貫してすごかった。
もう普通に猛打賞打ったり普通にバスター決めたりしちゃってた。打撃センスの塊であった。もし彼が途中で打者に転向してれば今頃は…と思うと残念でたまらない。同時期にヤクルトにいた高井雄平も吉見と同じく将来を期待された左投手であったが投手として伸び悩み、思い切って打者に転向したところ打撃開花し、現在でもヤクルトで主軸を打っている。吉見も途中で打者転向していれば今頃まだ横浜の主軸を打っていただろうに…と誰もが思う選手だった。結局吉見はあくまで投手にこだわり、晩年はロッテに移籍したが、そこでも思うような投手成績を残せず現役を引退した。
横浜の左腕というと印象に残ってる選手がもう一人いる。森中聖雄である。活躍した年数が短いので彼のことを知らない人がほとんどだと思うけど、ひょっとしたら巨人ファンの中には森中の名前を知ってる方もいるかもしれない。なぜなら森中は逆・松井キラーだったからだ。つまり、左キラーということで登板したのに松井秀喜に打たれまくったホームラン配給王だったのである。
松井のスイングスピードすげーな。完璧。看板直撃のサヨナラ特大弾である。
翌年の森中vs松井。この映像は今でも松井秀喜の特番があるとよく見かける伝説のHRである。前代未聞、なんと東京ドームの天井に当たりそのまま右翼席に入った超特大弾である。看板を直撃するHRはたまにあるが、天井直撃HRはこの松井のHR以外記憶にない。
誤解の無いように言っておくが、稼働年数が短いとはいえ、森中は中継ぎとしてそこそこ活躍したピッチャーである。しかしなぜか松井には極端に相性が悪く、巨人戦ではとにかく打たれまくった印象しかない。その相性の悪さ/打者にとっての相性の良さ、を買われ、横浜で現役生活を終えた後は巨人に打撃投手として雇われた。良い話である。
そんな森中の現役最終年の話である。その頃は調子を落とし主に敗戦処理をする投手となっていた。甲子園での対阪神戦、この日は序盤から阪神の猛攻により圧倒的な大差がついていた。その日の横浜ベンチはもう負けを覚悟しており、主戦ピッチャーを温存し、森中に登板が回ってきた。森中は無事阪神打線を抑え、その次の回に打席が回ってきた。投手温存のため当然代打は無く、森中はそのまま打席に立った。
みよ、阪神の藪から打った完璧なHRを!あの広い甲子園の、浜風が吹いて逆風になるのでとりわけ難易度の高い右方向へ引っ張るスイングでライトスタンドに突き刺さる豪快な一発である。森中は主に中継ぎとしての登板が多く、滅多に打席に立つことはなかった。投手としての成績を落とし、敗戦処理となったがゆえに生まれた打席でのHRであった。ちなみに森中にHRが生まれようが焼け石に水で点差は埋まらず、そのままこの日の横浜は敗れたし森中もこの歳で現役を引退している。しかし、稼働年数が短いとはいえ、あまり成績を残せなかったとはいえ、森中聖雄が記憶に残る選手だったのは間違いない。
これは俺だけが思ってることではないと思う。勘だけど、たぶん小説家の保坂和志も森中のことが好きだと思う。
なぜかというと、彼のカンバセーションピースという小説の中に森中という登場人物が登場するからだ。これは偶然の一致ではない。なぜならこの小説のなかで横浜ベイスターズの試合のシーンがけっこうな頻度で登場するからだ。
俺が持ってるのは新潮文庫から出てるんだけど、いま調べたら河出文庫になってた。へえ。河出の表紙、誰が撮ってるのか知らないけど、新潮文庫版は佐内正史である。この小説で描かれているのは2000年の横浜ベイスターズ。小説の初出は2002年の新潮。単行本化は2003年。時代である。
「なんで石井義人を使わないんだろう」
と言い出した。
「――優勝した年は不動のオーダーでよかったけど、いまはそんなチームじゃないんだから、もっと来年のこと考えて若手を使ってかなきゃダメだよ。このまま権藤が監督やってたら、大矢の時代の財産を食い潰して、また五年か十年、Bクラスだよ」
(保坂和志『カンバセイション・ピースより引用。以下同じ)
この会話、今の横浜ファンが聞いたらひっくり返るかもしれない。98年に優勝した横浜ベイスターズは、同じ権藤監督の指揮の元、99年3位、00年3位の成績を残し、Aクラス常連の強豪であったが、横浜ファンの大半は「権藤監督の采配が悪いから3位なんだ、監督を変えるべきだ」と主張していた。この小説の中の会話は、当時の空気をリアルに再現している。そして今からでは考えられない高望みである。
「でも大洋ファンは森を嫌ってるぜ」
「権藤じゃなくなってくれれば、森でも誰でもいいよ、俺は」
今だとこんな会話、滑稽以外の何物でもないが、こんなファン、当時の横浜にわんさかいた。ご存知の通り、この後横浜ベイスターズは森監督の元で最下位に転落し、山下大輔が監督になってから、万年最下位のスタイルが定着する。この小説の執筆時点では分からないことだ。なんというか、天罰だと思う*1。
ちなみにこの小説は野球小説というわけではない。というか、事件という事件すら起こらない。広い家で共同生活を過ごす若者たちの日々を、たんたんと描いただけの作品である。その登場人物のなかに森中がいる(森中が森中聖雄から来ていることは明白である)。そして登場人物たちが横浜ベイスターズファンで、横浜スタジアムで観戦するシーンが何回か描かれるだけなのでこの小説における野球の重要度はそれほど大きいものではない。あ、事件らしい事件が起こらないと書いたが、終盤でちょっとした事件らしいことがおこる。これはネタバレになるかどうか分からないが、2000年の横浜ベイスターズが作中に登場するとなれば知ってる方は誰もが知っている事実であるのでここに記す。つまり、権藤監督が退任し、横浜の不動の四番だったローズが電撃的に引退を発表した。
「ローズが引退したショックで熱を出した」
と、私が寝ている枕元で笑い、全然野球がわかっていない森中がそれに同調して、
「内田さんにとって、野球って何なんですかぁ、一体。教えてくださいよ。ローズって、そんなに偉大な存在なんですかぁ?おれの友達にも岡田有希子が自殺したときに、ショックで一週間小学校休んだヤツがいましたよ」
というのを、話としてはおもしろいから否定しなかったけれど、この結末は落胆するどころか腹が立つだけで、最終戦のあと夜遅く前川からかかってきた電話を聞きながら、ローズがいない球場で、ローズを抜かした選手たちが、ここにいないローズを思って涙を流すというチンケなメロドラマの一員にならなくてすんだことを誇らしいとさえ思って、
「ローズがいない空間に向かって流す涙なんか、おれは持ってない」
と、痛い喉で前川に言ったけれど、くやしいことに前川の話を聞いているだけで私はそのときの球場の光景がまざまざと浮かんできてしまって、結局私自身もそこにいたのと変わらない満足感さえ得てしまっていた、
いやー。この喪失感、凄くないですか。ちなみに同年に駒田も退団しているが、誰も駒田でここまでの喪失感を感じない(駒田ファンの方、すみません)。とにかく当時のローズは神だった。分かる。超絶分かる。この喪失感。「ローズがいない空間に向かって流す涙なんか、おれは持ってない」歴史に残る名文である。俺も機会があったら引用したい(今してるけど)。
ちなみにこの小説の中で人をイラっとさせる話の仕方をする森中であるが、この話し方のモデルは小説家の中原昌也とのことであった。