19年目の \横浜優勝/

皆さんもご存知かと思いますが、横浜ベイスターズクライマックスシリーズで首位広島を4-2で破り日本シリーズへの出場を決めました。1998年以来、19年ぶりです。

 

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日本シリーズ出場へ王手をかけた昨夜の試合、自分は居てもたっても居られなくなって仕事が終わるやいなや京浜東北線に飛び乗り横浜スタジアムに向かいました。試合が行われているのは広島のマツダスタジアムですが、横浜スタジアムではパブリックビューイングが行われており、席をファンに無料開放しているからです。19年ぶりの”歴史的な試合”、生では目にすることが出来なくても、すこしでもその空気を味わいたい。そう思いました。

 

関内駅に着いたのは19時過ぎ、横浜スタジアムに行くと長蛇の列。驚きました。もうこの時点でパブリックビューイングの席は満席となり入れない、というのです。入れなくてもなおこの長蛇の列。具体的に言うと横浜スタジアム6番ゲートのスロープから横浜公園内のベイスターズのグッズショップまで列が続き、そこから折り返してまた6番ゲートのスロープ近辺まで列ができてる。パッと見で1000人以上並んでるんじゃないでしょうか。もう入れないというのに。

 

その後も横浜スタジアムに集うファンは増え続け、横浜スタジアムのある公園内にはたくさんのファンで溢れかえりました。そして横浜の選手が打つたびに球場内から地鳴りのようになりひびく大歓声。まるでそこで試合が行われているかのようなこの熱気。日本一に輝いた98年以来、いや、それ以上の熱狂の渦を感じます。

 

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横浜公園の一角で、人だかりができてました。なんだろう、と覗いてみたら、誰かが持ち込んだタブレット端末の中継を、何人ものファンが集まって眺めている光景でした。

 

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戦後の街頭テレビかよ…凄すぎだろ…。

 

低迷が続き球場には閑古鳥がなきシーズン最後の試合は外野席を無料で解放してたぐらいのかつての光景が嘘のよう。自分はパブリックビューイングすら観れませんでしたが、こうして球場から溢れるほどの本当にたくさんのファンが横浜ベイスターズを愛していている、もうその事実だけで感無量です。そして19年ぶりの日本シリーズ進出。これほど嬉しいことはありません。

 

19年。長い年月です。当時高校生だった自分も19年の間に大学を出て社会人となり結婚し娘が生まれ娘は来年幼稚園に通います。19年とは、そういう年月です。ここに至るまでは、19年分の思いというものがあります。もうこんな日じゃないとその思いは書けないと思うので、その個人的な思いを記録として綴ります。

 

1998年の横浜ベイスターズ。それは誰もが認める当時最強のチームでした。最多安打盗塁王に輝いた巧打のトップバッター、石井。センターの広い守備範囲と強肩を誇る強打の二番打者、波留。首位打者に輝いたハマの安打製造機、鈴木。落合と並び称される最強の二塁手であり不動の四番、ローズ。鉄壁の一塁守備を誇る満塁男、駒田。チャンスに強いチーム一のムードメーカー、佐伯。強肩強打のキャッチャー、司令塔の谷繁。華麗な三塁守備でチームのピンチを何度も救ってきた進藤。彼らはマシンガン打線と呼ばれ、当時の球界一の得点力を誇りました。

 

また、投手陣の陣容もそうそうたるものでした。後にメジャーリーグで活躍する右のエース、斎藤隆。かつての最多勝投手で左のエース野村弘樹。のちの最多勝投手、川村。のちの最優秀防御率投手、ハマの番長三浦。終盤の試合を支えフル回転した中継ぎエース、島田と五十嵐。そして当時球界一のクローザーだったハマの大魔神、佐々木。

 

彼らを率いたのは、前年の投手コーチで98年から監督に昇格した権藤博監督、いや権藤さんです。なぜ権藤監督ではなく権藤さんなのか。本人が監督と呼ばれるのを嫌がり「権藤さんと呼べ」と選手たちに言っていたからです。

 

風変りな人でした。絶対にバントはしない。野手の起用は打撃コーチに一任。当時まだ先発完投が主流だった時代に中継ぎ分業体制の確立。その中継ぎ投手も例え勝ちゲームでも絶対に連投させない。勝ちゲームだろうが負けゲームだろうが中継ぎ投手を連投せず日替わり交互に起用する。そして選手の自主性を尊重し、選手の調整や細かい作戦にはほとんど口出しをしない人でした。

 

最強のメンバーにめぐまれ、そして彼らを率いた権藤さんのおかげで98年は優勝できました。

 

翌年のベイスターズは前年同様のベストメンバーが揃っていました。普通に考えれば、翌年も優勝できたでしょう。しかしベイスターズはここから徐々に崩壊の道をたどります。これはいろいろな理由が複雑に絡み合った結果ですが、今にして思えばある意味においては必然なのかもしれません。

 

優勝した年の契約更改、これは選手によって不公平感のあるものでした。国民的英雄・佐々木には3億3000万アップで当時最高年俸だった5億円が提示される一方、かなりの低評価を受けた選手たちがいます。その代表が中継ぎエースの両輪、島田と五十嵐でした。

 

今でこそ中継ぎ専門の投手で1億円プレーヤーはざらにいますが、当時は本当に中継ぎ投手の評価は低く、「先発も抑えもできないから中継ぎに甘んじている」という認識が大勢でした。その中継ぎに脚光を当てたのが権藤さんで、彼ら中継ぎ投手陣の活躍なくして優勝はありえませんでした。たとえ試合が負けていたとしても島田や五十嵐が試合終盤を支えていたからこそ強力打線でひっくり返して勝った試合が何度もありました。間違いなく優勝の立役者です。しかし彼らに提示されたのはそれぞれ800万のアップにすぎませんでした。今とは違い飛ぶボールを使用していた打高投低の時代に50試合以上に登板し防御率2点台をキープした、そんな優秀な成績を残していても、です。確かに佐々木の成績は圧倒的でしたが、800万アップと3億3000万アップを比べると、中継ぎエースの2人は低評価にすぎると言わざるをえません。

 

翌年の五十嵐と島田は成績を落とし、そろって防御率5点台と成績を悪化させました。先発と抑え投手ばかりが評価され、中継ぎではいくら活躍しても評価されない、そんなモチベーションの低下も影響してるというのもあったのではないでしょうか。前年同様の破壊力を誇った打線でしたが、屋台骨の中継ぎ陣が崩壊し、99年は3位の成績で終えました。

 

ここからベイスターズの歯車が徐々に乱れていきます。チームが負けだすと采配のせいにしだす声が噴出するからです。「バントをしないから負けたんだ」「選手を放任してるから負けたんだ」…バントをせず選手の自主性を尊重する野球で日本一に輝いたにも関わらず、です。

 

翌00年からチームの崩壊が顕著になっていきます。クローザー・佐々木はメジャーリーグに渡りリリーフ陣に大きな穴が空きました。健在だった打撃陣も「自分に代打を出されたことに激怒し試合途中に駒田が勝手に帰る事件」「権藤さんにあてつけるかのように石井が勝手にバント事件」など野手陣が造反し、権藤さんの求心力は目に見えて失っていきました。この年のベイスターズは3位で以前としてAクラスでしたが、権藤さんは責任を取って退任しました。

 

権藤さんの後任は徹底した管理野球で80~90年代の常勝西武を率いた森監督です。自主性を尊重する権藤さんの対極にいるような監督です。しかし、180度違う野球を行うことはベイスターズの選手たちには出来ませんでした。なにより権藤カラーを払しょくしようと森監督が進めたチーム改革がことごとく裏目に出ました。一番顕著な例が、鈴木の打撃改造です。森監督は、鈴木のホームランを増やすよう打撃改造をし、チームの四番に据えました。これは例えるならイチロー選手に松井秀樹のようなバッティングをするよう矯正するようなものです。ここから鈴木は成績をおとし、かつての首位打者が見る影もない成績が晩年まで続きます。01年こそ3位Aクラスをキープしますが、翌02年は最下位6位に転落し、森監督は責任を取って辞任します。

 

ここからチームは迷走します。その後の監督人事は、前年と真逆のタイプの監督を据えることが恒例となり、その度にチームは180度違う野球を強いられました。

 

03年から指揮をとった山下監督は生え抜きの人気監督で選手やファンに慕われる一方、選手に愛情がありすぎてチームを率いる監督の器ではありませんでした。2年連続の6位に終わります。

 

山下監督の反省から05年から指揮をとった牛島監督は180度真逆の闘将タイプ。初年度は3位とAクラス奪回を果たしますが、翌年度はやはり最下位に沈み辞任します。

 

迷走するチームカラーと監督人事。07年からチームの再建を託されたのは98年の優勝メンバーを育てた97年の監督でもある大矢監督でした。初年度で4位と躍進しますが一度崩壊したチームを立て直すのはもはや困難でした。翌年は最下位に沈み、3年目も指揮を任されましたが、あまりの成績不振で5月途中で休養という事実上の辞任、その後はヘッドコーチの田代監督代行が指揮を振るいました。この年も最下位で終わります。

 

翌10年から監督になったのは数々の球団で投手コーチとして投手を育成してきた尾花監督です。大矢監督といい、尾花監督といい、この辺から選手を育てることにシフトしてきた印象でしたが、いかんせん在任期間が短かくその手腕は発揮できませんでした。尾花監督も2年連続で最下位に沈み辞任します。

 

2012年から指揮を執ったのが中畑監督で、ここからの歴史はもう皆さんもご存じかと思います。在任期間は近年最長の4年。成績は6位、5位、5位、6位と奮いませんでしたが、やはり一番のポイントは4年間指揮を執り続けた、ということではないでしょうか。98年から2012年を振り返ると、ころころと監督が代わってチームはずっと迷走してきました。

 

中畑監督が就任時、最初に定めたルールを皆さんはご存知でしょうか。

 

・挨拶をきちんとしよう
・ユニフォームを綺麗に着よう
・どんな打席結果でもファーストまで全力で走ろう
・すぐベンチ裏で休まないで他の選手の打席もきちんと見て応援しよう
・ソファーで寝てはいけません
・監督室に勝手に入ってはいけません

 

高校の部活か、と目をうたがいますが、これが現実です。中畑監督就任時、これすらもできない選手たちばかりだったのです。自主性を尊重→管理野球→自主性を尊重→管理野球…とめまぐるしくチーム方針が変わった結果、水が低きに流れるかのように士気が下がりモラルも下がり本当にこれがプロの選手なのかと目を疑うような学級崩壊状態のチームを、4年間、一定の方針のもとに辛抱強く、勝てるチームの下地をつくりあげることに心血をそそぎました。

 

今ラミレス監督のもとで活躍している選手たちのほとんどが、中畑監督時代に育った若手の選手たちです。

 

打率2割で三振ばかりを量産し続けた三塁手、筒香。

 

”消える二塁手”と揶揄された打てず守れずの内野手、梶谷。

 

彼らを辛抱強くスタメンで起用し続け、外野にコンバートし打撃開眼させました。

 

他にも桑原、宮崎、井納、三上、山崎…枚挙にいとまがありません。

 

やはりこの在任期間がポイントなのだと思います。あの名将・野村監督ですらダメ虎といわれた阪神を立て直すのに3年、ゼロからスタートしたチーム・楽天を戦える集団に鍛え上げるのに4年かかってます。2年では結果を出すのはやはり難しい、またこんな崩壊したチームに2年以上付き合ってくれる監督などいままでいなかったという言い方もできるかもしれません。

 

そして中畑監督からバトンを受け継ぎ16年から指揮を執ったのがラミレス監督です。2年連続の3位Aクラス、2005年以来のシーズン勝ち越しを決めました。

 

ラミレス監督の采配は独特で、ファンの評価も二分されるところがあります。どんなに打たれようが先発は5回以上ひっぱり極度にリリーフを酷使しない。8番での投手起用。野手投手ともに固定メンバーを重用。スタメン捕手3人制。この頑固で独特な采配、どこかで見たことあるような…

 

 そう、権藤さんです。もちろんラミレス監督と権藤さんの目指す方向は異なるものですが、チームを日本シリーズに導いた手腕とその奇妙な采配が、自分には権藤さんと重ね合わせてみえてしまいます。

 

19年前とは違い、まだまだ発展途上のチームです。控え野手層の厚さでは広島にかなわず、先発の質では巨人にかなわず、中継ぎ陣の層では阪神にかなわず、チーム全体の総合力でみれば広島にとてもかなわない。そんな未熟なチームだと思います。広島に14.5ゲームの大差をつけられたのは当然だと思います。

 

そんな寡兵で圧倒的王者広島相手に互角以上の戦いをもって4-2で破ったのは奇跡としかいいようがありません。このシリーズ、横浜の選手たちは常に最高のパフォーマンスを発揮していました。2戦目7回2失点の濱口。3戦目と4戦目の1点差リードを一人一殺で凌ぎきったリリーフ陣。4戦目5戦目と広島に先行を許しながら逆転を果たした打撃陣。あの崩壊したチームの選手たちが、よくぞここまで…。本当に、本当に感無量です。

 

成長した選手たちはもちろんのこと、暗黒横浜をささえた不遇の選手たち。チームが優勝争いしてるからと引退試合を固辞した高崎、大原。今では打撃投手としてチームを支える暗黒初期のエース、吉見。昨日の勝利で、彼らの不遇が報われたと思った。本当に良かった。そして、この暗黒の横浜ベイスターズで通算172勝も積み上げた大エース、三浦。あなたがいなければ、横浜は19年前と同じ場所に立てなかった。本当にありがとう。

 

そしてラミレス監督。初年度から決してブレることのない采配でチームをここまで導いてくれました。野球のペナントレース長距離走です。目の前の試合で一喜一憂することなく、大きな故障者を出すことなく、シーズンが終わる最後にゴールテープを切れるような戦い方を、ずっと貫いてくれました。CS2stの選手起用はシーズンでは考えられない総力戦で、打つ手の全てが成功をおさめる、奇跡の勝利の連続で鳥肌が立ちました。もうこれだけで感極まってしまい、はてなに6000字も書き連ねてしまう始末です。

 

いや、これは不遇の選手たちだけでなく、不遇のファンすら救ってくれる勝利だったのだ…。19年待ってたかいがあったよ。本当にみんなありがとう。なんだかんだあったけれど、幸せです。